だいぶ更新していなかったな。
そんな心の余裕はなかった。

更新しない中でも多くの方に見ていてもらい感謝。
その一つとして、親子の思い出も描いているからだなと。
今回の記事は思いつくまま殴り書いたので長文だ。
誰かに伝えたい、理解してほしいとか言う気持ちは無くて、
思い出にしたり、これから動き出したりするため、自分のために書いた。


平成29年6月7日23時34分。最愛の息子ユウキ死去。


悲しさ、寂しさ、悔しさから、一生分以上の涙を流した気がする。
平成25年10月26日から始まった長い闘病生活は、勝機を何度も掴みかけながら、
結局はもう2度と闘うことは出来なくなってしまった。

ユウキは誰よりも私と一緒に過ごす日々を最期まで望んでくれた。
「父ちゃんが一緒にいてくれると、一番落ち着くんだ。」
「こんなにボロボロになっても、いつも一緒にいてくれてありがとう。」
「世界で一番大好きだよ。」
こんな駄目な父親を最期まで一番慕い、頼りにしてくれた。
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ユウキは闘病中、家族や周囲の人達に驚かれるほど、感謝の言葉を伝え続けた。
長い付き合いのベテラン医師は私に言った。
ユウキは魂のレベルが一つも二つも上にある出会ったことの無い存在だと。
だから私たちは、頭の下がる思いでユウキと接していると。

現実、ユウキは難病になってしまった可哀想な子では無く、
他の子では挑戦することの出来ないことに挑み続けるチャレンジャーだった。
だから「生きること」へのエネルギーを周囲にばらまき続けた結果、短い人生を終えてしまったが、
それは十分価値のある9年3カ月だったと思う。

長い闘いがユウキの魂レベルを上げたのかもしれない。
ただ、感謝の言葉を伝え続ける姿を隣で見ていると、
ユウキは自分に無いモノを9歳でイッパイ持ってる。良い子に育ってくれた。
共に歩んだ道に間違いは無かったと思った。

どんなに大変な状況下でも、皆と一緒にいることが一番楽しい。
だから長生きしたい。と、いつも変わらず言っていた。
周囲に感謝することができ、生きていることが楽しい。
そんな子が大きくなったら、たくさんの人を笑顔に出来るに決まっている。
そう感じるからこそ、当たり前の「元気で生きていく。」ハードルの高さが忌々しかった。



GW中に吐血し意識を失い救急搬送された日。
もう話すことも出来ないと覚悟をした日。

無事に目を覚ましたユウキの私への第一声は
「いつも心配してくれて、ありがとう。一番大好きだよ。」
短い言葉だが、ユウキがイッパイ詰まっている言葉だ。

闘病中、苦しむ姿を見ると私が辛そうな顔になることを気にして平気なフリをする。
その限界が来た日の第一声が感謝の言葉なのだ。どちらが親なのか分からなくなる。
そして、これが「魂のレベルが一つも二つも上。」なんだと気付く。



24時間の付き添いが10日以上経過したある日、
病院のベッドで横たわりながら、ユウキが突然、
「僕が死んでもずっと傍にいてあげるからね。」
「天国からでも見守ってあげる。約束するよ。」
一応報告だと言われた。しかしその眼は本気だった。

いつもは死に関わる話をすると、縁起でも無い話をするなと怒るのだが、
私が言葉にしなくても、いつもと違う何かを感じとってしまったのだろう。
ユウキが私に伝えたいことはハッキリ分かった。
そう、どれだけ頑張っても助けられなかったことを私が申し訳無く思っていること。
それに対し「本当に頑張ってきてくれた。恨むことなんて無いから心配するな。」と。

泣いたら認めたことになる。
普段通りに怒ろうとするが、言葉に詰まる・・・
私の答えを待つ、ユウキの本気の眼差し。

涙が止まらない。
言葉にしなかったものの、私はユウキに許されているのだ。

横浜、東京、京都、名古屋、そして地元の豊川、豊橋の病院でお世話になった。
無理なお願いを受けてくれた病院なので、どこも本当に良く対応してくれた。
だけど、どれだけ頑張ってきても功を奏してくれない日々は、
ユウキだけでなく、家族も数えきれないほどの傷を負ってきた。
そんな中でも、当たり前のように日常生活を続ける難しさは表現出来ない。

私は根治を目指し、ユウキに過度な治療を要求してきた。
手術は3年で生体肝移植を始め20回以上。多すぎて忘れてしまった。
毎回、成功しなければ命に係わるので慣れることは全くなかった。

当然、手術をそれだけ経験しているわけだから、
その他の治療も数えきれないほど経験した。
ユウキは身体こそ小さくて細かったが、医師も驚くほど強い子だった。

その強さを信じて闘わせ続けた私だが、それが良かったのか分からない。
ユウキは私の言葉を誰よりも信じ、文句も言わずついてきてくれた。

だけど結果が出せなかった。
それに対しユウキは、大変だったけど頑張ってくれたのは理解している。
「自分を責めないで良いよ。」と許してくれたのだ。

ユウキはボロボロ泣き続ける私を、本当に優しい笑顔で励ましてくれた。
私の人生で最も気の合う存在と感じるのは、こうゆうところなのだ。
お互い信頼し、通じ合える稀有な存在。ただ親子の関係では無い。
一緒に命懸けで闘い続けてきたからこそ生まれた絆。



最期の3週間は、ずっとお世話になっている医師の最大限の配慮により、
医療・看護体制を病院並みにして自宅に戻った。

おかげで、ずっと家族と一緒にいることが出来た。
私が最後にしてやれる精一杯のことだった。
ユウキも賑やかな家族に囲まれ喜んでくれた。

大変だったけれど、我が家で家族に囲まれながら、
安らかに永い眠りについてもらえるよう全力を尽くした。

そして「世界で一番優しいよ。」と言い続けてきてくれたユウキは、
私の手を握りながら永い眠りに入った。

現実感がまるで無いフワフワした感じが納まらなった。
現実を受け入れられないと言った方が正しいか。

ただ、コレだけは分かった。
私の人生が「良い人生だった。」と言えなくなった日のスタートであり、
全てを受け入れ、前を向いて進まなければならない日のスタートであることを。




ユウキはいつも、弟のマサトにラヂを一生懸命教えてやる。
それでいつか一緒にレースで活躍するよ。と言っていた。
私は「その約束は何があっても守ってよ。」と念を押していた。

返事は毎回「もちろん。」
ユウキも教えることを楽しみにしていた。

何かつながりを感じるのです。

天国からでも私を見守ると約束したユウキ。
弟マサトにラヂを一生懸命教えてやることを約束したユウキ。
それは直接的でなくても出来るのではないかと。

ラヂを通じタスキはつながるのではないかと。
ユウキとマサトの「究極の二人三脚」が出来るのではないかと。

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私がラヂを最も楽しいと思った時期は、昨年のユウキの急成長だった。
一緒にラヂることを期待していなかったユウキがとことん付き合ってくれ、
普段は不器用なのに、レースに出れば当たり前のように表彰台に乗ってしまう。
いろんなコースに行っても私と良いチキをしてくれる。本当に楽しかった。

もし楽しさのピークが過ぎてしまったとしてラヂを止めてしまったら、
再ピークになるかもしれない、究極の二人三脚を見れなくなってしまうなと。

幸い、このブログでユウキの成長とラヂの関わり合いは参考になる。
コースに4歳で連れて行き、半年後にプロポを握らせ、
サニイで泥遊び、ホングウのフリースペースで腕を磨き5歳でレースデビュー。

いろいろ経験させたが、興味を持った一番の要因は、当時、私の活動が活発だったこと。
だからメイッパイ遊んだら良いのかなと。

まだ1歳にも満たないマサトに重いモノ背負わせるのもどうかと思うし、
ユウキのレースでの集中力は凄かったので、同じモノは求められないだろう。
でも、勘違いだとしても少し信じてみたいなと思う。究極の二人三脚。

ユウキが興味を持ち始めてくれた頃と同じくらい遊び続けたいと思う。
寂しくなるので、引き続き、娘のハルカを連れていこう。
いつも一緒に遊んでくれたユウキが目の前からいなくなったら、
「夢にユウキが現れた。」と、嬉しい報告をしてくれる優しい妹を。
そうすれば、お姉ちゃん大好きっ子のマサトはついて来るだろう。
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もう一度スタートしよう。
そしていつかユウキに言ってあげたい。

「本当にありがとう」と。